薦野の歴史について

薦野の郷土史に興味を持って頂けますことを心より熱望致しております。

 

薦野城
薦野増時

筑前・薦野城

別名:臼ヶ岳城 / 山城(291m/200m)

薦野城について

   薦野城は臼ヶ岳城とも呼ばれ、薦野集落の南東に聳える標高291.3mの「城の山」山頂に築かれている。現在は登山道が整備され展望所となっている。
主郭は北端の最高所で曲輪は小さく削平も甘い。切岸はしっかりしており、北と西下に帯曲輪が付く。南へ伸びる尾根を堀切で遮断している。
主郭の南の尾根は自然地形であるが、南端部分が段加工されており、緩斜面になった南東側の尾根下に浅い堀切状の地形が残っている。さらに南西の峰には「一の丸跡」と記された標識が建っているが、この辺りはまったくの自然地形である。

歴史について

   築城年代は定かではないが薦野氏によって築かれたと云われる。
薦野氏は丹治式部少輔峯延が下向して薦野村に住み、薦野氏を称した事に始まるとされる。
薦野氏は宗像氏や立花氏に仕えてきたが、永禄11年(1568年)に立花山城主立花鑑載が大友氏に反旗を翻すと、これに反対した薦野宗鎮と米多比大学は鑑載によって謀殺された。
宗鎮の子が薦野増時で、大友氏が派遣した戸次道雪に従って立花鑑載を降し、戸次道雪が立花山城督となるとその重臣となった。
道雪の家督を継いだ立花宗茂にも仕え、子の成家は宗茂の妹を妻に迎え、増時も立花姓を賜った。
豊臣秀吉による九州征伐の後、立花宗茂が筑後国柳河へ転封となると、これに従い薦野増時は筑後国城島城四千石を賜った。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で西軍に属した立花宗茂が改易となると、筑前国福岡に入封した黒田氏に仕えている。

薦野の歴史をつなぐ会

 

薦野 増時

こもの ますとき

薦野増時について

   戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。立花氏の家老を務めて後に「立花三河守」の名乗りを許された。のち黒田氏の家臣となり黒田姓を与えられた。



生涯

   薦野氏は筑前国糟屋郡薦野の国人領主。祖先は宣化天皇の末裔である多治氏であるという。
天文12年(1543年)、薦野宗鎮の嫡男として誕生。薦野氏は代々宗像氏や大友・立花氏に仕えてきたが、永禄11年(1568年)に立花鑑載が大友氏に叛旗を翻した際、それに反対した増時の父・宗鎮と米多比直知が鑑載に謀殺され、薦野・米多比一族の討伐に安武民部・藤木和泉守ら八百を差し向けてきた。これに対し増時と米多比鎮久は三百の兵で西郷原で立花方を撃退した。 その後薦野一族は御笠郡に布陣している大友家の臼杵鑑速の軍と合流して立花家と戦い、鑑載が大友家に討伐された後、大友宗麟の命で戸次鑑連が立花山城に入って「立花道雪」と名乗ると、増時は鎮久と共にその与力となった。
増時と宗鎮父子は「属大友家、戦功多くて感状数十通あり」特に増時が「冷静沈着にして勇猛果断」で文武に秀でた人物であったため、道雪の家臣団の中では新参でありながら家老を任されるようになり、譜代の由布惟信、大友氏の与力出身の小野鎮幸と並んで家政を預かった。道雪の副将・軍師・参謀の一人として天正年間筑前において対秋月種実、原田隆種、筑紫広門、宗像氏貞らの戦闘にほとんど参加し、その軍略と武勇を遺憾なく発揮された。
道雪は増時の才能を愛し養子に迎えて家督を譲ろうとした。だが、これに真っ先に反対したのは他ならぬ増時であった。増時は現在の立花氏の家中は道雪に対しては絶対的な忠節を誇るものの、内実は様々な出身者による寄合所帯であり、安易な家督相続は道雪の死後に内紛を引き起こすとしてこれを諌めたのである。やがて、道雪と増時は高橋統虎を道雪の養子に迎えることに決め、統虎との養子縁組を実現させると、増時はその補佐にあたるようになった。
天正12年、道雪から増時への書状の中で、道雪は「高野山清泰院」という聖の処遇について意見を述べており、こうした遍歴する人々の語る情報がいかに危ういかを見抜いていた。確かな情報はなかなか得られないが、怪しげな情報は決して信じてはならない。これが乱世を生き抜く術だと書き遺したのである。
天正13年(1585年)、島津氏の北上の最中に道雪が病死する。統虎が名を「立花宗茂」と改めて立花氏の家督を継ぐと、増時は引き続き宗茂に仕えて各地を転戦するだけでなく、島津氏や豊臣秀吉との交渉にあたった。特に十時連貞と共に島津側の策略で捕虜になった宗茂の最愛の弟・高橋統増の返還を実現させた事などで長年の忠義を評された増時は立花姓を名乗ることを許され、息子・吉右衛門成家(立花成家)の正室には宗茂の実妹・甲斐が配される事となった。
豊臣秀吉の九州平定後に宗茂は筑後国柳河城に移封されると、増時もまた支城である同国三潴郡城島城(現在の久留米市)に4千石を与えられた。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの際に増時は徳川家康率いる東軍の勝利と判断して、親徳川派の加藤清正・黒田如水との同盟を進言した。しかし、宗茂や他の重臣は「太閤殿下の御恩」を主張して西軍への参加を決定してしまい、増時は柳河城の留守を命じられた。増時の子・成家が大津城の戦いで一番乗りする活躍をするも、西軍は敗戦、宗茂は増時の弟である丹親次を家康への交渉役として残すと柳河城へと帰還した。鍋島・黒田・加藤らの軍に攻められる最中に親次が家康から得た身上安堵の御朱印を携えて帰還し、宗茂はそれをもって黒田・加藤等と和睦交渉した後、柳河城を開城した。
立花氏の改易が決まると、同家の家臣は他家に仕える者、宗茂に従う者など離散する事となった。そんな中で増時は黒田如水から仕官を勧められる。新たに黒田氏が拝領した自分の故郷・筑前への帰国を希望していた増時は、旧主・道雪が眠る梅岳寺の墓守をすることを希望した。そこで如水は増時の息子に父の旧知行と同じ4千石を授け、これとは別に増時自身にも隠居料200人扶持が与えられる事となった。以後、増時の系統は福岡藩家臣・立花黒田氏として黒田氏に仕え続けて、かつての主君・立花宗茂が再び柳川藩に封じられた後も立花氏に復帰することはなかった。(黒田(立花薦野丹治)家文書に記載。)
元和9年(1623年)、死去。享年81。道雪の生前に恩賞として得た許しに随って、梅岳寺の道雪墓所の隣に葬られた。福岡藩の重臣で文人として名高い立花実山は曾孫にあたるという。

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